国立本店で“積読の山”の企画展示があり、自宅蔵書のこの辺(まち)とこの辺とこの辺(将棋とAI)(ここは最近読んでしまったので、積読再現という趣)から“積読の言い訳”とともに出展。
“積読の言い訳” 全文
----------------------------
自宅に1万冊の本がある。人にこの話をすると、「全部読んだんですか?」と必ずきかれるが(真顔で…)、そんなわけはなく、蔵書の半分ぐらいがまさに“積ん読”状態である。そもそも、仮に一生寝ないで本だけ読んで暮らしたとしても、読み切れるのか分からない量だと思う。
本を読んで知ること、発見することが大好きなのであるが、本を買うこと自体も好きなんだろうと思う。
ここから言い訳めいてくるのであるが、日々大量の本が出版されている。本を買う手段も格段に多様化し、さほど労力を要さず買えてしまう(しかも安く)。この効率優先の時代にあって、スペースをとる邪魔者扱いというのも無理もない気もするが、紙の本は相対的にとても安く手に入る状況にあるのではないかと思う。
気になるテーマ、気になる著者、気になる本は、本が増えるほど増えていくものである。本と本の関係性を分かっていくことが多読の楽しさであり醍醐味でもあると思うのだが、必然的に本が本を呼ぶという状態になる。読める量よりも買う量の方が多くなるのだから増えていくのは当たり前である。
だが、買ってきてそのままにはしていない(もしもそのままにしていれば文字通りブック・カオスと化し収拾がつかないだろう)。バーコードで読み取りデータベース化して、本棚に並べるところまではやるようにしている。本棚には私が決めたルールがあり、どの本がどこにあるかはほぼ完全に把握している。
どの本も読みたいとは思っている本である。本棚をつらつらと眺めていると、古今東西の書物と過去・現在・未来にわたる自分の興味関心の大まかな文脈が交錯しそこに顕れているようにも感じる。大げさに言えば、世界を知りたいということと、自分を知りたいということなんだろうと思う。同時に自分が知らないことが世界にはこんなにあるんだということを改めて思い知らされる。本棚を時折ちらっと見ること。そうすることで、思考と志向のありかを再認識することができる。
読書は時間も場所も自由な最上の趣味であると思うが、蔵書は場所との闘いである。(ここでは詳しく触れないが、本は必ずしも持たなくていいとも思っていて、持たなくて済む方法も探究している)